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歴史

  
  
  
  
  

赤穂城は慶長五年、「関ヶ原の戦い」により功を挙げた池田輝政(いけだてるまさ)が播磨国に入国すると、 弟:長政が赤穂領主となり、この地に築城を行った事が始まりとされる。
この城は、池田氏の居城として栄え、長政の次に輝政の二男:忠継、元和元年には忠継の弟:政綱が城主となる。
だが、正保二年に政綱の弟:輝興の時代に「正保赤穂事件」が起き、輝興が改易されると浅野忠直が三万五千石で入邦する。
忠直は慶安元年に幕府の許可を得て城を造営し寛文元年に現在の赤穂城が完成する。
延宝三年に、忠直の孫:長矩が9歳で播磨赤穂藩主を継ぎ三代藩主となる。
しかし元禄十四年、江戸城内にて吉良義央(きらよしひさ)を切付け長矩は切腹と処せられ、浅野氏は改易となる。
同十五年に浅野氏に代わり永井氏が入邦するが、旧浅野氏の家臣達が長矩の無念を晴らす為、吉良邸に仇討を仕掛け義央を討ち取る事件が起きてしまう。
これが世に言う「元禄赤穂事件」で別名、赤穂浪士:忠臣蔵である。仇討を行った赤穂浪士47名は全員切腹と処されるが、その生き方は多くの方から称賛された。
赤穂城は永井氏が宝永三年まで城主を勤めそれ以降、森氏が入邦し明治時代まで森氏が城主を勤めた。


現在

  
  
  

現在、赤穂城址は赤穂城跡公園として整備されている。
天守台や、復元の櫓や門、石垣に庭園が整備されており、その規模はとても約5万の小大名とは思えない程、広大な造りをしている。
赤穂城と言えば忠臣蔵として多くの方に知れ渡っており、事実公園内には赤穂浪士を祭っている大石神社や大石邸長屋門も整備されていた。
また、本丸表門などは歴史ドラマの撮影スポットにもなっており、多くの方が観光に来られる場所となっている。
現在、復元中の場所も有り今後の復元に期待したい。この地が日本人の多くが知る事となる忠臣蔵の歴史的な場所だと思うと高揚感を覚えてしまう。


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