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歴史

  
  
  
  
  

岐阜城は、建仁元年に二階堂行政(にかいどうゆきまさ)が築城した城だ。
築城当時は、城というより砦ほどの規模だったが、二階堂行藤が死去するとこの砦も廃城と化した。
室町時代になり、美濃守護代:斉藤利永(さいとうとしなが)が砦を修復し城として居城するようになると天文十年、 一介の油商人である斉藤道三(さいとうどうさん)が下剋上で成り上がり、美濃守護大名:土岐頼芸(ときよりあき)を追放し稲葉山城主となる。
その後、道三は尾張:織田信秀と戦い、不落の要塞稲葉山城を要する道三が信秀を敗走させる。
しかし弘治二年、息子:義龍と長良川で戦い、道三は討ち取られ戦死してしまうと、婚姻関係にあった織田信長は美濃攻略に動き出す。
永禄四年、義龍は急死し息子:龍興が跡を継ぐと同年、信長は美濃攻めを行うが、名城稲葉山城や名将竹中半兵衛を擁する龍興の前に信長は敗走する。
だが永禄十年に、信長によって調略された西美濃三人衆の裏切りによって、龍興は城を捨て美濃から脱国し、遂に稲葉山城は信長により落城する。
信長は、本拠地を稲葉山城に移すと、城の名を岐阜城と改め、この名城から全国統一を目指す事となった。
だが、天正十年の「本能寺の変」によって、信長が倒れると三男:信孝による混乱を生じる事になるが、信孝は後継者争いに敗れ自刃すると、岐阜城は池田氏、羽柴氏、織田氏と城主を替える。
慶長五年に起きた「関ヶ原の戦い」で岐阜城城主:織田秀信は西軍方に付くも、東軍に攻められ岐阜城を開城する。
そうして関ヶ原の戦い後、東軍総大将:徳川家康は岐阜城を廃城とし、新たに加納城(かのうじょう)を築城させた。加納城築城時に岐阜城の天守も移築された。


現在

  
  
  

現在の岐阜城は、金華山山頂に模擬天守や、櫓、石垣などの遺構を残している。
金華山山頂まで登山で登城も可能だが、麓よりロープウェイが使用出来るので、ロープェイを使用すると山頂まで容易に行く事が可能だ。
山頂から望む景観は別格で、岐阜市内は勿論、名古屋市内まで一望出来る絶景スポットだ。そして山麗部にも現在信長の館址が出来ていた。こちらは現在も発掘途中なのか、未完成の様だ。
山頂から金華山を徒歩で下山したが、急勾配な岩山登山道だった。岐阜城は廃城の際、資材の殆どは加納城築城に充てられているが、 当時の人はこの岩場を通り資材を降ろしたのだと考えると、頭が下がる思いだ。


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