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歴史

  
  
  
  

吉田城は永正二年、今川氏親の命により牧野古白(まきのこはく)が築城した城だ。
だが、翌年古白が戦死すると、牧野氏と戸田氏の間で争奪戦を繰り返し城主が多々入れ替わる事となる。
更に、享禄二年には西三河の松平清康が侵攻し吉田城を攻略、松平氏の管轄となるが清康死後、再度牧野氏と戸田氏の間で争奪戦となる。
天文十五年、今川義元は牧野保成の要請を受け吉田城を攻撃落城させ、今川氏の管轄下に入ると吉田城は今川氏における東三河重要拠点となった。
その後、東三河:松平氏が弱体化すると松平氏を組み込んだ今川氏は東三河全域を管轄下に収めるも、永禄三年に起きた「桶狭間(おけはざま)の戦い」で今川義元が織田信長に討たれると、 今川氏の支配力が急劇に低下し松平家康(後の徳川家康)はこの機に今川氏から独立を行い、同八年に家康は吉田城を攻め立て攻略する。
吉田城を攻略した家康は城代に重臣:鳥居忠次(とりいただつぐ)を置き、遠江攻略の拠点となった。
天正十八年に家康は秀吉の命により、関東へ移封となると、池田輝政が城主となり吉田城の拡張に入るも、 慶長六年に輝政は播州・姫路へ移封された。この時、拡張中の城は未完成のままだった。
その後、城主は国替えが頻繁に行われた為、腰を据えて未完の吉田城再着手に当れず、吉田城は未完成のまま明治時代を迎えた。


現在

  
  

現在、吉田城址は豊橋公園となっており、模擬鉄櫓や石垣などの遺構が残っている。
鉄櫓は豊川対岸から望むと、その雄姿を更に引き立てており豊橋のシンボルとなっている。
豊橋公園には石垣や土塁、曲輪など良好な形で残されており、駐車場から鉄櫓までの道筋を豊川川岸から進むと、その遺構を堪能出来るだろう。
本丸跡地は広大な広場となっており、吉田城が完成していたら現世にどのような形で残されていたか、興味は尽きない。


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