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歴史

  
  
  
  

長篠城は、永正五年に山家三人衆の一人:長篠菅原正成(すがわらまさなり)が築城した城だ。
正成は今川氏に味方しこの地で子孫と共に繁栄し、後に徳川家康の傘下に入る。
だが、甲斐:武田信玄が三河へ侵攻すると、この長篠城で武田氏を迎え討ち激戦の末、陥落は免れるも圧倒的な軍事力を擁する武田氏に降る事となる。
しかし、元亀四年に信玄は病が悪化し武田軍は侵攻を断念、本国へ撤退するとこの好機を生かし家康は長篠城へ侵攻、城主:菅原正貞は降伏する。
以後、長篠城は武田氏から離反した奥平信昌(おくだいらのぶまさ)が城主を努め武田氏の再侵攻に備えて城を拡張する。
天正三年、信玄死後跡を継いだ武田勝頼(たけだかつより)が再度三河へ侵攻し武田氏を裏切った信昌が守る長篠城へ侵攻するも、 天然の要塞と化した長篠城は圧倒的不利な状況の中、織田徳川連合軍到着まで持ち堪えた。これを世に言う「長篠の合戦」だ。
この際、徳川方である鳥居強右衛門の決死の行動は後世に伝えられている。
その後、武田氏は設楽原で織田徳川連合軍と戦うが戦力の大半を失い、後に滅亡する原因となった敗北を喫してしまう。
戦後、信昌は長篠城を守り通した手柄として領土を拡張されると新城城を築城し、長篠城は廃城となった。


現在


現在、長篠城址は曲輪や土塁など多くの遺構を残している。
本丸跡地を囲む様に巨大な曲輪や土塁が形よく残されており、近くには豊川や宇連川(うれがわ)が流れ天然の要塞と呼ぶに相応しい城の地形をしている。
長篠合戦を彷彿させる幟(のぼり)が城址に立っており、隣接する歴史資料館では詳細を確認する事が出来る。
武田氏滅亡の原因となる長篠城址でその姿を是非確認して貰いたい。


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